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集合論のVが本当は何なのか、ここ数日考え続けてるけどわからない。
考える意味があるかどうかもわからない。

考えた末に、考える必要はないという結論に至った。

集合論のVについて
(1) Vとは「すべての集合のクラス」である。
これは、集合論のモデルの中で最大のものである、という意味に解釈できる。
(2) フォン・ノイマンのVの累積的階層は、Vを無から一意に構成する手続きではない。
Vは予め与えられていて、それを後から階層化する手続きである。これは累積的階層に用いる冪集合を作る操作がVに依存しているためである。

(3) Vを定めるのに(2)の累積的階層は使えないので、(1)の方向で考えたい。
集合論のモデルの多義性は、一つはレーヴェンハイム・スコーレムの定理によるもの、もう一つは独立命題によるものである。ここでは前者はおいて、後者について考える。
集合論は独立命題に対して、それを真とするモデルと偽とするモデルを持つ。つまりモデルの集団を二つのグループに分岐させる。独立命題はω個(可算無限個)あるので、この分岐の末端には2^ω個のモデルのグループがあることになる。
そして、その中の一つにVが含まれているはずである。

(4) では、どの分岐をたどればVのいるグループに行けるのか。判断基準は「より大きなモデル」を含むほうの分岐を選ぶ、というものである。
この基準は単純ではない。例えば
(a) クラスとして大きな方を選ぶ
(b) 一方で他方をエミュレートできるとき前者を選ぶ
などが考えられる。
だがこのような基準もいつも使えるわけではない。実際多くの場合は、分岐した二つのモデルそれぞれで何が起こるかを研究することになる。

(5) (4)のような状況なので、Vがどういうものか定めるのは技術的には難しい。だが実は、この状況を気にする必要はない。
(1)の「すべての集合のクラス」というVの定義を捉え直すと、「人間が集合論について考える上で必要なものをすべて提供してくれるクラス」である。
独立命題の分岐でどちらのモデルを採用しても、正しくVの方であればそれで良し、Vでなくともそれが影響するのは具体的な議論が現れるときなので、都度分岐を切り替えれば良い。つまり、人間の具体的な議論の集積が「必要なV」を形作るのである。

(6) モデルの分岐の中で、Vは「もっとも多くの(あらゆる)議論を展開できる」分岐であると言える。
(7) ゲーデルは数学的プラトニズムの立場から、独立命題の真偽を「生産性がより高くなるように」選択すべき、と主張していたという。
このゲーデルの主張はある意味で(6)にも沿うものである。「生産性の高い」公理系を採るということは、その公理系と結びつくモデルはより多くの議論を展開できるモデルということ、つまりVに近づいていることを示唆するからだ。

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